東海道五十三次バーチャルウォーク
さつき・ラン&ウォークの東海道五十三次ウォーキングコースです。全長は約492kmになります。
スタートは日本橋、フィニッシュは京師宿(三条大橋)です。
※各宿場の詳細は『徹底図解 東海道五十三次』、『図説 東海道歴史散歩』を参照
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その他
日本橋
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東海道の旅の起点となる日本橋。「日本橋」という橋がかけられたのは1603(慶長8)年のこと。東海道のみならず五街道すべての起点でもあり、江戸の海上交通の拠点でした。さらには富士山や江戸城、朝日を望めるポイントもあり、それが日本橋の名の由来にもなりました。
現在の日本橋は、幾度もの消失と再建を経て、江戸時代の終わりに完成した石造りの二連アーチ橋で、1999(平成11)年には、国の重要文化財にも指定されました。1963(昭和38)年に首都高速道路が橋の上を通るようになり、往時の雰囲気はすっかり失われてしまいましたが、辺りには当時から続く老舗商店も少なくありません。
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品川宿
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江戸から京へと向かう旅人にとって、最初の宿場町となる品川宿。江戸を出る人と入る人、それを見送る人と出迎える人で、つねに活気の絶えない賑やかな町でした。江戸に入る参勤交代の大名行列も、まずはここで休憩をとり、旅装束を脱いで身支度を整えたといいます。
同時に品川は、風光明媚のリゾート地でした。街道のすぐ脇には、3代将軍・徳川家光が鷹狩りのための御殿を置き、8代将軍・吉宗が庶民も楽しめるように桜の名所とした御殿山があります。山上からは、江戸湾を見渡す見事な眺望も楽しめました。
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川崎宿
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江戸を出た旅人が最初に行き当たる大きな川が、多摩川の下流部にあたる六郷川です。それを越えた向こう岸に位置していたのが、東海道二番目の宿・川崎宿です。
六郷川にはかつて、徳川家康によって架けられた六郷大橋がありましたが、1688(元禄元)年の大洪水で流失。以後は、渡し船が「六郷の渡し」として多くの旅人達を乗せて行き来することになりました。それとともに、川崎宿もまた賑わいを増していきました。
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神奈川宿
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江戸湾内交通の拠点・神奈川湊のすぐそば、海に沿った細長い宿場町であった神奈川宿。幕末には、諸外国の領事館が数多く置かれました。これは、1858(安政5)年に五カ国条約が結ばれ、神奈川が開港場となったためです。
宿場西側一帯は、台の茶屋と呼ばれており、中でも「櫻屋」はもっとも繁盛し、広重の絵や弥次・喜多で知られる『東海道中膝栗毛』にも登場します。
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保土ヶ谷宿
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帷子・程ヶ谷・新町はそれぞれ独立した別の宿場でしたが、1597(慶長2)年に一つの宿場、保土ヶ谷宿となりました。本陣の軽部家は今も健在です。跡碑のみの本陣跡が多いなか、貴重な存在ともいえます。
また、保土ヶ谷といえば旅人泣かせな権太坂が有名です。今では宅地開発が進みかなり緩やかになったとはいえ、上り坂が延々と1.5kmも続き、行き倒れになる旅人も多かったといいます。
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戸塚宿
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江戸から歩き始めた旅人の多くが、最初の宿泊地に選んだのがここ、戸塚宿でした。旅籠の数も、江戸~箱根間では小田原についで第2位。日本橋からの距離は40km以上ありますが、朝4時に江戸を発てば、夕刻には戸塚宿に入れる、というのが当時の一般的な旅程だったようです。
当初戸塚に宿場はありませんでしたが、戸塚付近は山路が多く、旅人が難渋したため、寛永年間(1624-1644)に戸塚宿が作られました。
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藤沢宿
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藤沢が宿駅として発生したのは、相模諸駅でも古く、室町時代には白拍子がいて旅人を慰めたりしていたといいます。江戸時代に入り、時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の門前町として、また大山道・江ノ島道との分岐点として繁栄した宿場です。毎年6月28日からの大山開き大祭中は、宿場も参詣客で大いに賑わいました。
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平塚宿
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山梨県に端を発する相模川(馬入川)と、丹沢山系から流れ出る花水とに挟まれたような格好で、町を形成する平塚。この宿は中原街道や八王子道の分岐点で、徳川家康も江戸への抜け道に好んで利用したといわれています。現在、宿場内の各所には本陣跡・脇本陣跡・高札場跡・問屋跡などを示す碑が数多く立てられています。
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大磯宿
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現在は海水浴場として名高い大磯。明治以降は避暑地となり、伊藤博文や岩崎弥之助、吉田茂らの別荘が建てられました。広重絵の画面左奥に見える松林の向こうに続く海岸は、万葉集や後撰和歌集にも詠まれた歌枕の地・小余綾の磯。現在も海岸沿いに、見事な松林が残されています。
大磯にはまた、日本三大俳諧道場の一つである鴫立庵があります。この場所で漂泊の歌人・西行は「こころなき 身にもあはれはしられけり 鴫立沢の 秋の夕暮」の歌を詠みました。
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小田原宿
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江戸から歩きはじめた旅人たちが最初に出合う城下町であり、2泊目の宿となることも多かった小田原。すぐ先に「天下の険」とも謳われた難所・箱根を控えていることもあって、東海道でも有数、神奈川県内では最大の規模を誇る賑やかな宿場町でした。
見どころである小田原城は平安時代末期、小早川氏がこの地に館を設けたのが始まりです。
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箱根宿
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標高725mと、五十三次の中でも最も高い場所に位置していたのが、言わずと知れた難所・箱根山を望む箱根宿です。箱根宿が宿場町として整備されたのは、箱根の関所が完成する前年の1618(元和4)年です。箱根超えなどの利便を図るための「人工の町」であり、当初は両隣の三島と小田原から50戸ずの住民たちが、強制的に移住されられたといいます。当初は十分な田畑も作れずに、人々の生活は楽ではなく、幕府も町の維持に苦労しました。ですが、次第に「箱根七湯」で知られる温泉街として繁栄し、寄木細工などの独自の産業も根付きました。
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三島宿
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険しい箱根の山を越え、長い長い坂道を降りてゆくと、次なる宿場町の三島へと至ります。平安時代には伊豆国府が置かれるなど、古くから伊豆地方の中心地として栄えてきたこの地は、富士山からの豊かな湧き水に恵まれた「水の町」でもありました。
また三島宿は、源頼朝が源氏の再興祈願をしたことでも知られている三嶋神社の門前町としても多くの参拝客で賑わいました。
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沼津宿
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東海道12番目の宿場町は、駿河国沼津藩主・水野氏の居城であった沼津城のもと、城下町としても賑わった沼津。現在のJR沼津駅周辺の繁華街がその中心部にあたります。沼津城は戦国時代、武田勝頼が北条攻めの拠点として気づいた三枚橋城が始まりです。勝頼が死亡し、武田氏が滅んだ後は、徳川・豊臣の将が次々に城主になったり、一時廃城となったりしました。約160年の時を経て、水野出羽守が新しく沼津城五万石の藩主となりました。100年ほど続きましたが、現在は本丸跡の碑が中央公園にある位です。江戸時代にはかなり大きな宿場となりました。
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原宿
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韮山代官の支配所出会った原宿は、東海道中最小の宿場です。「原」という地名は、かつてこの地域を覆っていた「浮島が原」と呼ばれる広大な湿地帯に由来します。この湿地帯は農作業に不向きであり、洪水や海水の逆流による水害も多く、地元住民をしばしば苦しめました。
一方で、広大な湿地帯の向こうにそびえる富士の姿は、往来する旅人を喜ばせました。次の吉原宿へ向かう途中には、百人一首に登場する田子の浦の海岸もあります。
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吉原宿
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吉原の名はもともと、ヨシが生い茂る低温地だったことから付いたといわれています。富士川の船渡しを挟んだ蒲原宿とともに、対向宿場町として発達したことで知られていますが、東海道五十三次の中で、原宿とこの吉原宿ほど土地の悪条件に悩まされた場所はありません。吉原宿の人々は高潮の被害に悩まされ二度も宿場を壊されたので、その都度宿場を移転せざるを得ませんでした。このため、街道を北へ向かって大きく迂回せざるを得ず、「左富士」が誕生しました。
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蒲原宿
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蒲原宿は国道や鉄道から少し裏手の山沿いの静かな場所にあります。かつてはもっと海際に面していましたが、元禄時代に津波の被害があり現在の位置へ移転しました。
五十三次を描いた広重絵の中でも、傑作として取り上げられることの多いのが、ここ蒲原宿を描いた「夜之雪」です。しかし、この絵は画家が生み出したフィクションであり、実際の蒲原宿は、前後の吉原、由比と同じく、太平洋・駿河湾に面した海岸沿いの町。五十三次の中でもむしろ温暖な気候の地であり、雪が降り積もるようなことは数十年に一度あるかないかだといいます。
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由比宿
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一つ前の蒲原宿と同じく、旧街道沿いに古い建築などがいくつも残る由比宿。五十三次の中でも規模の小さい宿場町ですが、現在でも当時の情緒を色濃く感じさせてくれる場所の一つとなっています。古くは由井とも湯居とも書かれたこの宿は、街道沿いの漁村として発達しました。
現在、由比の本陣は「由比本陣公園」として整備されており、園内には「東海道広重美術館」もあります。
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興津宿
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興津宿は薩埵峠と江尻の中間にあり、その昔、清見潟や清見ヶ崎などと呼ばれた名高い景勝地でした。東には薩埵山の端越しに富士を望み、西には三保の松原・久能山を望める海岸美を誇っています。古来より甲州と駿河を結ぶ交通の要衝でもあります。広重絵に描かれているのは、薩埵峠を越えた後に目の前に現れる興津川。今も昔も鮎釣りの名所として知られる清流です。
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江尻宿
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「江尻」の地名は、清水湊に注ぐ巴川の「尻」、すなわち河口にできた砂州の上にある町であったことに由来するといいます。戦国時代は甲斐武田氏が気づいた江尻城のもとで城下町として栄、1601(慶長6)年にそれが廃城となった後は、宿場町、そして巴川と清水湊の海運の町として賑わいました。現在でも清水湊は、神戸、長崎と並び「日本三大美港」に数えられています。
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府中宿
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駿河国から遠江国を通じ、最大規模の宿場町として賑わった府中。ここはまた、江戸幕府初代将軍・徳川家康のお膝元であった町でもあります。また、『東海道中膝栗毛』の作者十返舎一九はここの出身なので、主人公弥次さんも府中生まれとなっています。一般に「府中」または「駿府」と呼ぼれていますが、宿場の呼称としては「府中宿」でした。
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丸子(鞠子)宿
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東海道20番目の宿は、古くは「鞠子」との憑依もある丸子。駿遠最大の宿場出会った前の府中から一転、山あいを流れる丸子川沿いに細長く伸びる、五十三次の中でも小規模な宿場町でした。
今もひなびた趣を残すこの宿場町の名物といえば、なんといってもとろろ汁。特産の自然薯をすり下ろし、白味噌の汁で溶いて麦飯にかけて食べるというものです。
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岡部宿
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丸子宿と同じく岡部宿も峠越えの小さな宿場です。現在ではここも鉄道から離れ、竹の子とお茶を栽培するささやかな土地といえます。丸子よりも観光的要素は少ないですが、宿内には旧家らしい面影を残した本陣、内野家があり、細い旧道には古びた民家が軒を連ねています。古く素朴な町に似合う伝説や仏像が数多くあります。
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藤枝宿
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東西に2kmにもわたって延びる、大規模な宿場町であった藤枝。現在はその細長い街並みがほぼそのまま、JR藤枝駅前の商店街となっています。古い建物などはほとんど残されていませんが、だるま屋や桐たんす屋など、伝統ある工芸品を売る店が目立つのが特徴的です。
多くの人で賑わうことの商店街と同じく、江戸時代の宿場町・藤枝も、交通の要所として、また商業地として非常な賑わいを見せていました。広重絵では「問屋場」の様子が描かれています。
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島田(嶋田)宿
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東海道一の大河、大井川を控えた島田宿は渡し場として発展した宿場です。大井川は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」の歌でも知られており、旅人にとってはなんとも厄介な難所でありました。
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金谷宿
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古くから宿駅として知られ、江戸時代に入ると制作上、大井川の船、架橋が禁じられたため、交通の要所として大いに繁盛しました。現在宿場は小さな地元商店街になっていて、二軒の本陣跡と一里塚の表示があります。宿場の途中から緩い上り坂が始まり、峠の雰囲気を感じさせてくれます。
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日坂(新坂)宿
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日坂宿は、1843(天保14)年の記録によると本陣1軒、旅籠屋33軒等、168軒の家があり、750人が住んでいました。静岡県内22宿の中で、規模と人口の両面において由比や丸子等とともに最も小さな宿のひとつでした。
大田南畝の「改元紀行」には、日坂宿の家々はわらび餅を売り、足いたみの薬、足豆散・足癒散等を売るものも多いと記されています。
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掛川宿
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大河ドラマ『功名が辻』の舞台にもなった、山内一豊の居城・掛川城を擁する掛川宿。1590(天正18)年から10年をここで過ごした一豊は、関ヶ原の戦い直前、家康に掛川城を明け渡すことをいち早く表明し、のちに土佐20万石の主となる出世なきっかけを掴みました。「掛川」のち名は、町の中心部を流れる逆川に切り立った崖が多く、「崖川」「欠川」と呼ばれたことに由来するとの説が一般的です。一豊が去ったのちの掛川城は、江戸城を築城した太田道灌の子孫が城主として入りました。幕末の震災で天守は倒壊しますが、現在は再建され掛川のシンボル的存在になっています。
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袋井宿
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五十三次のうち、東からも西からも27番目、東海道のちょうど「真ん中」にあたる袋井宿。現在、町のあちこちに抱えられているキャッチフレーズは「東海道ど真ん中」です。また、町の入口から出口までの寄りが五町十五間(約570m)ほどしかなく、東海道で一番「短い」宿場町であったといいます。
現在の袋井は宿場町の雰囲気はほぼ感じられない静かな町ですが、掛川から袋井への道中で見られる見事な松並木が当時をしのばせてくれます。
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見付(見附)宿
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「見附」とも書く地名は、京都から東海道を下ってきた旅人が、初めて富士山を「見つける」場所であるところからついたといいます。
古代、国府や国分寺が置かれた場所で、中世以前は遠江の中心地でした。東海道の宿駅となってからは、西に天竜川を控え、川越宿場として繁盛しました。街道沿いには、国分寺の遺跡や府八幡宮など古い歴史の雰囲気を醸し出しています。
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浜松宿
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6軒もの本陣を抱える、五十三次の中でも箱根と並んで最大規模の宿場町であった浜松。旅籠の数も最大時で100軒近くと、その繁栄ぶりが伺えます。その上、浜松城の城下町でもありました。「遠州浜松広いようで狭い横に車が二ちょ立たぬ」という俗謡は、道幅が狭いのではなく、旅人でごった返していて荷車がすれ違えないほど賑やかだったことを表しています。
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舞坂宿
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約700mの松並木が途切れると舞阪宿、浜松宿に臨む小さな宿場です。宿場の入り口には、今では珍しい「見付石垣」が残っています。かつては石垣の横に番人が立って出入りを監視していたところです。そして宿場内には、火難除けの神様・秋葉山の常夜燈が3つもあります。
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新居宿
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渡し船で浜名湖を越えたその先は、31番目の宿・新居宿です。東西に走る街道を挟んで南北に町屋が並び、その東側には1600(慶長5)年に徳川家康の設置した新居の関所がありました。この関所は、箱根関所より改めが厳しかったことでも有名です。特に女性や鉄砲の出入りには念入りでした。当時の旅人には難儀であった新居関所も、今では全国で唯一、当時の建築が残る貴重な存在であります。
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白須賀宿
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東海道32番目の宿・白須賀は、古くから景勝地として名高い「潮見坂」の上に位置する宿場町でした。もともとは坂の下に置かれていたものが、1707(宝永4)年の大地震と津波で、大半の家屋が流されてしまうなどの大きな被害を出し、坂の上に移されたのだといいます。
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その他
二川宿
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遠江国を出て三河国に入り、最初に行き当たる宿場町が二川国。元は、大岩と柄沢という二宿でしたが、一つにして二川となりました。もともとそれほど規模の大きい宿場町ではありませんでしたが、明治に入った後も、鉄道駅が宿場町の中心から離れたところに建設されたことなどから、大きな開発の波は及びませんでした。戦災による焼失も幸いにして逃れ、現在もなお多くの古い家屋が街道沿いに残されています。往時の姿をほぼ完全に復元した本陣が資料館として公開されていることもあって、かつての宿場町としての雰囲気を色濃く感じられる貴重な町です。
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その他
吉田宿
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1224(元仁元)年頃、豊川に架かる今橋が出来て、付近を今橋と呼ぶようになりました。1522(大永2)年に吉田と改められました。吉田は城下町であり、河口の湊町であり南へ向かう田原街道と、北へ向かう別所街道との分岐点として、そして宿場町という多面的な顔を有する都市として大いに栄えました。
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御油宿
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新居の激しい関所を避けるため、見付宿から東海道を外れ、通称「姫街道」と呼ばれる別ルートを選んだ女性たちが、再び東海道へと戻ってくるのがここ御油宿です。地名の語源は地頭延納が近くの宮路山に行幸されたとき、油を献上したという言い伝えによるものです。本坂越えの追分宿として繁盛しました。
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赤坂宿
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御油の宿を出て2km足らずを歩けば、そこは次の宿、赤坂です。五十三次の中で、最も間隔の短い区間です。当初は二つの町で一つの宿場の機能を果たしていたのを、のちに独立させていたという説もあります。
御油ほどではないものの、古い家屋も多く残されている赤坂。中でも現役で営業中の旅館「大橋屋」は、江戸時代の旅の情緒あふれる歴史的文化財です。
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藤川宿
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古くは鎌倉街道の時代から旅人の休息地となっていたとされる藤川。五十三次を整備するにあたり、そこにさらに周辺の集落から人々を移住させ、長さ1kmという細長い宿場町がつくられました。
名物は藤の花。もともと「宇治川」という地名が、藤の花の見事さから「藤川」に改められたとの説もあります。もう一つ有名なのが、芭蕉が「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と詠んだ「むらさき麦」です。
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岡崎宿
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「岡崎宿」は東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町でした。旧街道(欠町から伝馬通、材木町から八帖町、矢作橋へとつながる)は、「岡崎二十七曲り」と呼ばれ、現在でも街道筋には二十七曲りを示す碑や常夜燈が残されています。
また、岡崎の地は江戸幕府の開祖・徳川家康の生誕地でもあります。この地に藩庁を置く岡崎藩はわずか5万石ながら、代々家康とゆかりの深い譜代大名が藩主を務めるなど、幕府からは常に重要視される藩でした。
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池鯉鮒(知立)宿
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現在の地名は「知立」ですが、江戸時代の表記は「池鯉鮒」でした。知立のほうが先にあった地名ですが、東海道三大社に数えられる知立神社に、「殺生禁断の池」とされる池があり、ここに鮒が多く住んでいたことから「池鯉鮒」の表記が定着したといいます。
宿場手前にある八橋周辺は、在原業平と「かきつばたの伝説」で有名。また宿場の特産品は木綿であったことから、その運搬用の馬の市が立つようになったといわれています。「不断立つ 池鯉鮒の宿の 木綿市」の句碑は神社参道に立っています。
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鳴海宿
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鳴海の名は、1357(延文2)年の醍醐寺領に、鳴海荘として出てくるのが初見です。『更級日記』『海道記』『十六夜日記』にも鳴海潟が見え、かつては海に近かったことがわかります。
鳴海周辺は、織田信長と今川義元の「桶狭間合戦」古戦場でもあります。現在は史跡公園になっている「桶狭間合戦伝説の地」はこの田楽ヶ窪と推定される場所で、義元の墓などが立っています。
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宮宿
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250軒以上の旅籠を抱え、人口は1万人以上。五十三次の中で最大級の賑わいを誇った宮宿は、佐屋街道や美濃街道への分岐点であるとともに、古くから栄えた熱田神宮の門前町でもありました。このため、「宮宿」の故障が一般的ながら、幕府や尾張藩の公文書などでは「熱田宿」の表記も見られるようです。
また、次の宿・桑名へは「七里の渡し」といわれる渡し船が出ていましたが、その航路も今はすべて埋立地となり、陸路で移動するしかなくなっています。
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桑名宿
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桑名は中世から多くの船や商人の集まる交通の要地、湊町です。この湊町は有力年寄り集が営む自治都市でもありました。そして桑名城築城とともに城下町となり、1601(慶長6)年、東海道の宿駅とされました。
宮の宿から桑名までは、渡し船で約4時間の旅。「七里の渡し」とはいいながら、干潮時には沖合を通らねばならず、航路が10里近くになることもあったといいます。
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四日市宿
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「四日市」という地名は、室町時代の終わり頃から、毎月4日・14日・24日の「四」のつく日に市場が開かれていたことにちなむといいます。桑名からの陸路のほか、宮の宿からも「十里の渡し」と呼ばれる渡し船が運行していました。これは、桑名宿の「七里の渡し」から客を奪うと苦情が出たというエピソードが残るほど、交通の要所として多くの人々で賑わった宿場町の一つでした。
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その他
石薬師宿
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東海道44番目の宿・石薬師は、五十三次全体の整備よりはやや遅れ、1616(元和2)年に宿場町と定められました。宿場町のもととなったのは、広重絵にも描かれている真言宗の名刹である石薬師寺です。
この付近は、ヤマトタケルゆかりの地でもあります。杖衝坂は、ヤマトタケルの伝説があるかなりの急勾配の坂です。巨大な猪に惑わされ疲労したヤマトタケルは、この坂に着いたときには杖をついて歩くのがやっとだったことから、この名が付いたといいます。
宿の中ほどには往時の雰囲気がただよった大きな旧家、小沢本陣跡があり、当時の貴重な宿帳や調度品などが多数保存されています。
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その他
庄野宿
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東海道五十三次の中で最も遅く、1624(寛永元)年に宿場町に指定された庄野。それ以前は静かな農村で人口も少なく、鈴鹿川を挟んだ対岸の集落34戸を移転させ、もともとこの地に住んでいた36戸と合わせて70戸でようやく宿場町としての体裁を整えたことから「草分け36戸、宿立て70戸」といわれました。
庄野の付近もヤマトタケル伝説が残る地であります。東海道北側には、ヤマトタケルの墓と言われる「白鳥塚古墳」があります。この隣の加佐登神社には、ヤマトタケルが死の直前まで持っていたという笠と杖を、ご神体として祀っています。
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その他
亀山宿
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東海道46番目の宿場町。東の端・露心庵跡から西の端・京口門跡まで、約2.5kmが亀山宿です。上の歌川広重「保永堂版東海道五十三次雪晴」は、「亀山に過ぎたるもの」とうたわれるほど豪華だった京口門を描いたもの。亀山は宿場町であるとともに、 亀山城の城下町としての顔も持っていました。そのため、見通しのきかない曲がりくねった複雑な道や坂道が多く、城下町らしい特徴的な町並みとなっています。宿場は栄えていましたが、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通る大名達は亀山宿に宿泊するのを遠慮したといわれています。
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その他
関宿
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東山道の不破関、北陸道の愛発関と並ぶ「古代三関」の一つ、鈴鹿関が置かれていた関宿。江戸時代に宿場町となってからも、大和街道や伊勢別海道への分岐点となる交通の要所として、多くの人々で賑わいました。
また、関宿は東海道で唯一の「伝統的建造物群保存地区」に定められた地域です。町並みに入ると、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になります。
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その他
坂下(阪之下)宿
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坂下宿は、鈴鹿峠の麓に位置し、東海道五十三次の48番目の宿場町として、鈴鹿峠を往来する多くの人々でにぎわいました。
東海道難所のひとつである鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家などの宿泊も多く、江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48件が軒を連ねていました。
道路拡幅によって往時の景観は失われましたが、石造物などにかつての面影を留めています。
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その他
土山宿
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鈴鹿峠を超えて、伊勢国から近江国へ。最初の宿場・土山は、地元に伝わる労働歌の「鈴鹿馬子歌」に、「坂はてるてる鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と歌われている場所です。
宿場内には二軒の本陣の内の、土山本陣家が今も残っています。当時の玉座や手桶もあり、江戸時代の宿泊記録などの古文書が多数保存されています。
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その他
水口宿
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城下町としても宿場町としても古い歴史を持つ、東海道50番目の宿・水口。室町時代には、すでに伊勢参宮に向かう人々の宿が置かれていたともいいます。1585(天正13)年には、豊臣秀吉が甲賀郡と蒲生郡のいち部を支配させるために家臣の中村一氏に命じて「水口岡山城」を築城。この城は、現在は城址公園となって石垣などの遺構が残るのみですが、城下町として整備される際に中心部に作られた、東海道の左右に平行して2本の道が走る「三筋の通り」は今もそのままに残り、水口の町を特徴づけるシンボル的な存在となっています。
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その他
石部宿
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「京達石部泊まり」の言葉があるように、京から東海道を下る旅人の多くが最初に宿をとった石部宿。ここもまた伊勢参宮街道への分岐点として賑わったところですが、現在ではそのおかげはほとんどなく、古い家屋の建ち並ぶ町並みが、落ち着いた佇まいを見せています。
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その他
草津宿
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草津宿は、東海道と中山道という、五街道の中でもとりわけ重要な二つの街道が合流する交通の要衝でした。宿場町としての草津の最大のシンボルともいえるのが、2軒あった本陣農地の一つ、田中七座右衛門本陣です。約1300坪という広大な敷地を誇り、現存する本陣としては最大級のものです。
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その他
大津宿
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江戸日本橋から53番目の宿場町で、宿場と琵琶湖の物資を集散する港町の機能を持ち、東海道の宿場の中で最大の人口を有し賑わっていました。古くは天智天皇の大津の宮、そして平安京に始まる京都の都市化に伴い、北国・東国から京への水陸交通の要地、京の東玄関として重要な位置にありました。
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その他
京師宿(三条大橋)
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江戸の日本橋からはじまった旅は、京都・三条大橋でいよいよゴールを迎えます。ここまで500km近くの道のりを歩き通した旅人たちは、鴨川に架かるこの橋を渡って、京の町へと入って行きました。
この三条大橋が最初に作られた時期は明らかではありませんが、1590(天正18)年、豊臣秀吉が小田原の北条氏攻め(小田原の役)に向かう際に、多数の兵馬を通すため増田長盛に命じて改築させたとの記録があります。
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- 紹介URL
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- 距離
- 492km
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- 所要時間
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- 所在地
- 東京都
(中央区)
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- コース
カテゴリ
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ウォーキング
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- コースの
特徴
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- 推奨時期
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- 問い合わせ先名称
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- 問い合わせ先電話番号
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- 問い合わせ先URL
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- 投稿者
- 株式会社アールビーズ